こんにちは。
飯田橋のカウンセリングオフィス、サードプレイスのナカヤマです。
ネグレクト、は英語の「怠慢」とか「無視」という意味から来ている用語で、養育者が育児を放棄すること、またはその状態、を指します。育児放棄、というと「捨て子」のような直截なイメージが浮かんでくるかもしれませんが、そこまであからさまではなくても、表面からはわかりにくく、周囲には気がつかれないような「軽度」のネグレクトは相当数あるかと思われます。
「あるかと思われます」とぼんやりした表現なのは、そもそもの当事者からいっても自分がネグレクトされていたのかどうかいまいち判然としない、とケースも珍しくなく、その実数を知ることは難しいからです。例えば親から殴られた、とか罵倒された、という出来事が「ある」虐待と違って、ネグレクトは親からの適切な養育が「ない」虐待であって、人は「ない」ものに対して「あった」と認識するのはとても難しいことだからです。
特に子どもの頃からのネグレクトは、生まれたときから適切な養育が「ない」状態ですから、「ない」状態が普通であって、それが「ある」ことも想像もつかない、ということなります。
なんだか禅問答みたいになってきました。
子どもが充分な食事を与えてもらえなかったり、汚い服を着せられていたり、必要に応じて病院に連れていったりしてもらえないことがあれば、遅かれ早かれ周りにもネグレクトとして知られることになります。子どもだけで家に置き去りにされて餓死したり、子どもが駐車場の車の中に置かれて熱中症で亡くなったりするのは、ネグレクトの結果起きた事件や事故です。このように結果が明らかになるネグレクトを身体的なネグレクト(Physical neglect)と呼んでいます。
しかしもう一つの「軽度」、つまり、あからさまではないネグレクトは、情緒的ネグレクト(Emotional neglect)と呼ばれていて、それは比較的あちこちで起きています。
情緒的ネグレクトの例としては、自分が養育者から愛されたり大事にしてもらっていると感じられないことや、家族同士がお互いに助け合っているという感覚が得られていないこと、などが挙げられています。このように「軽度」というのは周りからみて察知が難しいだけで、当事者にとっては重大な違和感や苦しみになることも少なくはありません。
ネグレクトは親(養育者)からの「愛情」と結び付けて説明されることもありますが、「愛情」というのはもうすでにシンプルな一つの感情というよりも、親の役割とか、子どもに対する期待とか、社会的責任とか、文化的価値観とかのいろんなものが張り付いたヤヤコシイものになっているものですから、当事者本人も果たして自分の状態が「愛情」がはく奪されていた状態であったのか、自分の感覚にどうも自信がもてないし、ともすれば全ては自分の勘違いではないのかという疑いがぬぐいきれないこともあるようです。
そこで、ネグレクトってなんだろうって考えるときは「空気」を想像してほしいと思います。
私たちは生きていくために呼吸をし続ける必要があります。養育者との間にある「空気」は子どもには絶対に必須なものです。しかるにそれはどの子どもにも平等に与えられるものではありません。森や草原を吹き渡る風の中で生活する子どももいれば、高山の薄い空気の中で浅い呼吸をして生きていく子どもや、工場の煙に汚染された空気を吸っていかざるを得ない子どももいます。またこの「空気」は恒常的なものでもありません。ある時を境になんらかの理由でその質や量が変化することもよくあることです。
子どもの頃に自分が生きるために呼吸していた空気をがどんなものであったのか、大人になってみないと客観的には捉えにくいものですが、それを知ることは今の自分がより良く生きるための大きな助けになります。オトナになった私たちは(まだコドモの人はもう少し待つ必要があるかもしれません)自分にとっていい「空気」を探したり、作り出すことができるのです。
そして、この「空気」がトラウマであったかどうか、それは本当に個人的なことで、よくよく話しをしたり考えていかないと実感持って判らないし、腑に落ちないことでもあります。空気のように目に見えない、「ない」ようなものを可視化しようとするとき、その作業は一つ一つ丁寧に、科学者のように行う必要があるのです。
今のところPTSDにも複雑性PTSDにもトラウマ的出来事の診断基準としてネグレクトは含まれてはいません。でも、空気だってその昔、「ある」って科学で証明された実績があると思えば、なんというか勇気も出てくるってものです。
●PTSD診断基準と複雑性PTSDの最新の診断基準☞【複雑性PTSD】のDSO症状のことなど、いろいろ
ではまた!